2015年6月1日 星期一

日本の歴史−1


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本文

日本の歴史−1


わが国の 一番 古い 歴史の 本は 「古事記」である。 それより 前の ことは 考古学の 資料からしか わからない。 そのころ 日本には 「縄文文化」と 「弥生文化」が あって、 「弥生時代」には 農業が 発達してきた。 次の 「古墳時代」は いわゆる 氏姓制度の 時代で、 天皇家も 氏族の 一つであった。

聖徳太子は 七世紀の 始め、 わが国 最初の 憲法を作った。 太子は たいへん かしこくて、 一度に 十人のうったえを 聞きながら 判断を 下した。 太子は 法隆寺たど たくさんの お寺を 建てた。 この 時代から 710 年に 奈良に 都が 移る 前までの あいだが、 「飛鳥時代」である。 太子は また 留学生を 中国へ 送った。かれらは 日本に 帰って、 中国の 政治制度を 伝えた。

645年の 「大化の改新」や 672年の 「壬申の乱」の のち、 天皇中心の 政治体制が 確立した。

「奈良時代」に 中央政府は 都や 地方に たくさんの 寺を 作って、 それらを 人々の 精神的 中心に した。 しかし、 それで 財政的に 困った。 その あいだに 藤原氏の 勢力が のびた。



音讀

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日本にっぽんれき−1



わがくにの 一番いちばん ふるい れきの ほんは 「古事記こじき」である。 それより まえの ことは こうがくの りょうからしか わからない。 そのころ 日本にっぽんには 「じょうもんぶん」と 「よいぶん」が あって、 「よいだい」には のうぎょうが 発達はったつ してきた。 つぎの 「ふんだい」は いわゆる せいせいの だいで、 てんのうも ぞくの ひとつであった。【譯文】

しょうとくたいは ななせいの はじめ、 わがくに 最初さいしょの 憲法けんぼうつくった。 たいは たいへん かしこくて、 いちに じゅうにんのうったえを きながら 判断はんだんを くだした。 たいは ほうりゅうなど たくさんの おてらを てた。 この だいから 710 ねんに 奈良ならに みやこが うつる まえまでの あいだが、 「すかだい」である。 たいは また りゅう学生がくせいを ちゅうごくへ おく った。かれらは 日本にっぽんに かえって、 ちゅうごくの せいせいを つたえた。【譯文】

645ねんの 「たい改新かいしん」や 672ねんの 「壬申じんしんらん」の のち、 天皇てんのうちゅうしんの せい体制たいせいが 確立かくりつした。【譯文】

奈良ならだい」に ちゅうおうせいは みやこや ほう に たくさんの てらを つくって、 それらを 人々ひとびとの 精神的せいしんてき ちゅうしんに した。 しかし、 それで 財政的ざいせいてきに こまった。 その あいだに 藤原ふじわらの せいりょくが のびた。【譯文】




翻譯及解釋

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日本にっぽんれき−1



わがくにの 一番いちばん ふるい れきの ほんは 「古事記こじき」である。 それより まえの ことは こうがくの りょうからしか わからない。 そのころ 日本にっぽんには 「じょうもんぶん」と 「よいぶん」が あって、 「よいだい」には のうぎょうが 発達はったつ してきた。 つぎの 「ふんだい」は いわゆる せいせいの だいで、 てんのうも ぞくの ひとつであった。

我國最古的歷史書是〈古事記〉。在那以前的事情只能從考古學的資料中得到了解。那時候,日本有”繩文文化”和”彌生文化”,在”彌生時代”,農業發展起來了。後來的”古墳時代”是所謂氏族制度的時代,天皇家族也是氏族之一。


しょうとくたいは ななせいの はじめ、 わがくに 最初さいしょの 憲法けんぼうつくった。 たいは たいへん かしこくて、 いち じゅうにんのうったえを きながら 判断はんだんを くだした。 たいは ほうりゅうなど たくさんの おてらを てた。 この だいから 710 ねんに 奈良ならに みやこが うつる まえまでの あいだが、 「すかだい」である。 たいは また りゅう学生がくせいを ちゅうごくへ おく った。かれらは 日本にっぽんに かえって、 ちゅうごくの せいせいを つたえた

聖德太子在七世紀初,制定了我國第一部憲法。太子非常賢明,同時聽取十個人的申訴,就作出了判斷。太子建造了法隆寺等許多寺院。從這時代到 710 年遷都奈良前的期間,是”飛鳥時代”。太子還派留學生去中國。他們回到日本,傳來了中國的政治制度。


645ねんの 「たい改新かいしん」や 672ねんの 「壬申じんしんらん」の のち、 天皇てんのうちゅうしんの せい体制たいせいが 確立かくりつした。

645 年的”大化革新”以及 672 年的”壬申之亂”以後,確立了以天皇為中心的政治體制。

奈良ならだい」に ちゅうおうせいは みやこや ほうに たくさんの てらを つくって、 それらを 人々ひとびとの 精神的せいしんてき ちゅうしんに した。 しかし、 それで 財政的ざいせいてきに こまった。 その あいだに 藤原ふじわら の せいりょくが のびた

    在”奈良時代”,中央政府在京城及地方建造了許多寺院,並使它們成為人們的精神中心。然而這使財政發生了困難。在這期間,藤原氏的勢力擴大了。